【嫌われる勇気】研修とか職場で疲れたときに使えそうなアドラー思想の8つのヒント

今更ながら、嫌われる勇気を読み切りました。研修医も残り半年を切りまして、職場で使えそうなアドラーの考え方をまとめておこうと思います。嫌われる勇気は、アドラー心理学を研究している哲人と生きることに悩みを抱える青年の対話形式で書かれており、他の哲学書と比べて読みやすかったです。

1. 変われないのは、「変わらない」と決心しているから

あなたは変われないのではありません。人はいつでも、どんな環境に置かれていても変われます。あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。

 

研修医って2ヶ月くらいでどんどん知らない科を回っていくのでストレスフルではあります。それを理由にあーでもないこーでもないというのもかんたんです。一度選んでしまった研修病院を変えることは研修留年を選べばできますがほとんどの場合不可能です。しかも働き始めた研修病院は、実際に大きな影響力を持っています。不満もあるでしょうし、他者を見て「あんな境遇に生まれたかった」と思う気持ちも出てくるでしょう。けれども、そこで終わってはいけないのです。問題は過去ではなく、現在の「ここ」にあります。この先どうするのかは自分の責任なのです。人はいつでも、どんな環境に置かれていても変われます。変われないとしたら、それは自らが「変わらない」という決心を下しているからです。

もちろん口では「私は変わりたい」と言うかもしれません。

けれども、本心では、少しくらい不便で不自由なところがあっても、いまのまま変わらずにいるほうが、楽であり、安心なのです。人が変わろうとするとき、大きな“勇気”を試されます。変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」。「変われない」人は後者を選択する。

変わるにはどうすればいいか?

アドラー心理学は、勇気の心理学です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ“勇気”が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。

海外旅行に行く感覚はアドラーの言う勇気とにているように思えます。

2. 誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいい

誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。もちろん、他者と自分を比較する必要もありません。

医学部6年間を終えた人間が集まって研修をやるのだから、みんな荒波を乗り越えてきており、十人十色の人生の厚みを感じます。圧倒的に頭のいい人とか他者と自分を引き比べてしまいがち。劣等感は、他者との比較から生まれるように感じます。しかし、健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものなのです。他者との間にちがいがあることは事実なのですが、われわれは「同じでないけれど対等」なのです。一つ前の話に似てますが、いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値がある。対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができないのです。

3. 権力争いに足を踏み入れるべからず

人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。

研修医始まっていくらか勉強してくると、自分の意見と上の先生とか、周りの医療職との意見の違いが生じます。いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。それはわたしは正しい。すなわち相手は間違っていると思った時点で、議論の焦点は主張の正しさから対人関係のあり方に移ってしまうから。これは権力争いに他なりません。

そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。自分が正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。

ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうのです。

負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。

誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではないにもかかわらず…。

勝ち負けにこだわっていると、私たちは正しい選択ができなくなってしまいます。なんのために働いているのか忘れてはいけないでしょう。

4. 他者の期待など、満たす必要はない

あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。

一見自己中心的な考えなのかと思えますが、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。研修医という立場はいろいろな立場の中間地点にいてその狭間に苦労することもしばしばあります。

  • 当直明け帰っていいかな
  • この日は当直に入りたくないから他の人に入ってほしい
  • 上の先生と看護師言ってることが食い違う

ぼくらは究極的には「わたし」のことを考えて生きている。そう考えてはいけない理由はないのです。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになるのです。

承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになります。そして、もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。

コレこそが嫌われる勇気ってことです。あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。たしかに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。

でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。

自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。

5. より大きな共同体の声を聴け

われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。

研修医やめちゃったとか聞くとアドラー心理学まだまだ浸透していないなと思います。ゆるっと研修医やってるやつが何を言うとおっしゃる方もいると思いますが、ゆるっと今生きることができているのもアドラー心理学による選択のおかげなんです。

学校、会社、家庭…私たちは、どこからしらの共同体に所属し、そこで生きています。しかし、その共同体になじむことができずに苦しむことが少なくありません。そこで、アドラー心理学のアドバイスは「より大きな共同体の声を聴け」ということなのです。

以前質問箱に頂いた質問を例にします→いじめは地形効果によるものなんだろうけど、地形効果を無視してまで突き進みたいものってなんだろう?

しかしそんな権力や権威は、医局という小さな共同体だけで通用する話であって、それ以上のものではありません。「人間社会」という共同体で考えるなら、あなたも教授も対等の「人間」です。理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわないのです。もちろん、目の前の教授に異を唱えるのは、むずかしいと感じるかもしれません。

もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。

関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。われわれは、目の前の小さな共同体に固執することはありません。もっとほかの「わたしとあなた」、もっとほかの「みんな」、もっと大きな共同体は、かならず存在するのです。

6. 縦の関係か横の関係か、どちらか一方しか選べない

もしもあなたが誰かひとりとでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」でとらえているのです。

アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。また、人間は「この人とは対等に」「こっちの人とは上下関係で」とはなりません。

つまり、縦の関係か横の関係か、どちらか一方しか選べないのです。

もしあなたが、相手が友達であったとして、

「A君はわたしよりも上だが、B君はわたしよりも下だ」

「A君の意見には従うが、B君には耳を貸さない」

「C君との約束など、反故ほごしてもかまわない」

などと考えているならば、それは「縦の関係」を築いている証拠です。

7. 自己肯定ではなく、自己受容

ありのままの「このわたし」を受け入れること。そして、変えられるものについては、変えていく”勇気”を持つこと。それが自己受容です。

救急外来とかで対応がうまくいかなかったときとか落ち込みます。アドラーの言葉に「大切なのはなにかが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」という言葉があります。僕たちは「自分」という容れ物を捨てることもできないし、交換することもできません。しかし、大切なのは「与えられたものをどう使うか」ということ。つまり、「自分」に対する見方を変え、いわば使い方を変えていくことが大切なのです。しかし、「ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。

求められるのは、自己肯定ではなく、自己受容なのです。自己肯定と自己受容の間には明確な違いがあります。

自己肯定
できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と自らに暗示をかけること。自らに嘘をつく生き方

60点だったのに100点だったと思いこむ

自己受容【肯定的な諦め】
仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと。自らに嘘をつくものではない。

60点だったときに次どうするか考えること

自己受容とは「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めることなのです。僕たちは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。だったら「変えられないもの」ではなく、「変えられるもの」に注目するしかないのです。

救急外来でうまく対応ができなかったらそのたびに次同じような状況になったらどうすればよいか考えればいいだけのことです。

8. 世界とは、ただ「わたし」によってしか変わりえない

「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、ということです。

哲人が言うには、「ひとりの力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということ。つまり、「わたし」の見方が変われば、「世界」そのものが変わってしまうのです。他の誰かが変えてくれるのを待つのではなく、自ら、今この瞬間から歩み始めなければならないのです。

 

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