髭男の曲の記事は3曲目になりました。なんだかんだPretenderが髭男の唯一無二の名曲だ。クズ男の浮気相手との曲は結構売れるのが世の常である。このクズ臭い感じを理解するのは面白い。
君とのラブストーリー それは予想通り
いざ始まれば 一人芝居だ
ずっとそばにいたって 結局はただの観客だ
一人芝居という言葉にこの歌のクズっぷりが表されている。一方通行である恋愛に良いものは無い。そして片思いではなく一人芝居であるので、演じているのだ。そしてどんなに近い場所にいる君であってもそれは観客でしかないのだ。
昔カノジョに『私をキーホルダーって思っている?』とおこられたことがあった。私が独り空回りしているだけなのか?と不安になる部分も多かったことだろう。ぼくの感情を外に出さない性質ではそう思ってしまうのは仕方ないことだが、一人称としての男女と親しい部分があるように思われる。つまりお互いにこのラブストーリーが一人芝居になっているすれ違い状態を表現されている。
感情のないアイムソーリー
ぼくも仕事中たまにいるウザ看護師なんかがいると使ってしまう感情のないアイムソーリー。相手への感情を全く無にすると仕事を進めるためだけに使用している挨拶になっている。一つやるべきことがあればこういった挨拶をすることはすぐに慣れてしまう。この曲の場合は多分ワンナイトだと思われる。
もっと違う設定でもっと違う関係で
出会える世界線 選べたら良かった
もっと違う性格でもっと違う価値観で
愛を伝えられたらいいな そう願っても無駄だから
人は満たされない思いを自分以外の環境に眼を向けがちだ。最初この曲を聞いたとき不倫の曲かと思った。最初の人であれば不倫という関係にならないと。しかし、性格や価値観にまで否定のメスが入るとなればこの場合不倫という愛ある行為ではないことがわかる。したがってダメ男が目論むワンナイトってことかな。
グッバイ
ワンナイトにおいて大事なのは後腐れのなさだが、やっぱり君が綺麗だったので話したくない。この関係から発展すれば良いのだが、もう少し健全な出会い方ではなかったのでそれは叶いそうにない。
誰かが偉そうに 語る恋愛の論理
何ひとつとしてピンとこなくて
飛行機の窓から見下ろした 知らない街の夜景みたいだ
世の中では凄まじいまでの不倫バッシングが行われている。
他人の情事に口を出しても何の意味もないのに、連日連夜芸能人の不倫を叩き、ツイッターでは偉そうな恋愛評論家が他人の恋愛を語っている。
そんな風潮を見て不倫男はこう考える。
当たり前だ。
世の中の評論家が偉そうに恋愛を語っても、どんなに不倫がバッシングされても、当事者たちにとっては関係ないのだ。
まさに「何ひとつとしてピンとこなくて」である。
評論家は綺麗な世界の一途な恋愛を語る。
今日より良い時も悪い時も、
富める時も貧しい時も、
病める時も健やかなる時も、
愛し慈しみ、そして死が二人を分かつまで貞操を守ることを誓っている…
ような、恋愛小説みたいな綺麗な恋愛を理想とし、「そうあるべきだ」と世間に押し付ける。
しかし不貞を働く男女からするとそんな綺麗事は他人事だ。
「知らない街の夜景みたいだ」
とホテルで笑う。
『Pretender』は自分の感情に正直なダメ男の、魂の嘆きのようにも見えてくる。
「もしも自由に恋愛ができたなら」
「もしも結婚していなかったなら」
「もしも一夫多妻が許されていたら」
などと、得意の仮定法過去で物事を捉え、最終的に
「そう願っても虚しいのさ」
と悟り、「グッバイ」と別れを告げる。
『Pretender』はダメ男が理想通りにいかない現実を嘆き、諦め、受け入れたときの心境を歌った曲なのである。
「好きだ」と無責任に言えない現実を悟り、別れを決意したダメ男のポエムなのだ。
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