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指摘された時の受容について

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指摘された場合、冷静になって情報を確認し、相手の意図を理解しようと努力することが重要です。感情的にならずに、建設的な対話を促進することを心がけましょう。指摘された問題を認識し、改善策を提案する姿勢を持つことも大切です。

冷静に考えればどうってことはないんだけど、手術中とかに一気に何人かからの指摘があったりすると、情報過多になってしまう。批判と捉えて過度に落ち込んだり反射的に言い返したりしまったりしてしまう事がある。

自分の事を割と素直な人間だと思っているのだが、素直さを因数分解していく結果として、「指摘を批判と捉えない」が一つの因子と言える。

もちろん伝える側の表現に問題があることもあるけれど、攻撃されてるわけでもないのに勝手に自己防衛モードに入ってファイティングポーズ取ってしまう人は意外といる。生き方が下手くそだと思うが、素直に生きていればそのような人からファイティングポーズを取られることはないから良好な関係性を築く方が良い。

能力の低さと機嫌の悪さ

なぜ指摘を批判と捉えてしまうのかをあえて自分だけの問題として考えてみると、「能力が低さ」「機嫌が悪さ」の2つの結果ではないかと思う。

元も子もない話だが、能力が低いという話に帰着するというのが自分の結論である。手術を例として引き続き引っ張ってくるとやはり自分の能力不足が故に情報過多になる。

ここでいう能力というのは、一言でいうと想定力である。結局、自分が想定してなかったことを言われて処理しきれない時に発生する現象なのだ。全部先に想定されてる話なら、指摘されても批判とは捉えない気はする。骨折の整復が上手くいくいかないがどれくらいのもんなのか、整復方法のパターンの種類の多さなどである。

宿題をやってない子どもがおかんに宿題やらなくて大丈夫?と聞かれた時にうるさいなと反発してしまう構図とチョット似ている。小学校受験から勉強を強いられた人生の先には反抗心が生まれてしまうのは当然かもしれない。

よく教育法として褒めましょうと言われる。ただ褒めるだけなら甘やかす事と変わらないのでと思っていた。結婚してみて子供も意識し始めた折に教育について考えてみた。そんな大それた事はない。僕の子供の時からの夢は建築士であったが、叶う事はなかったので、子供には自分の夢を叶えて欲しい。ただそんな事を考えても両親が医師だと既定路線が出来やすくなる。こんな時子供が自らやってることを褒めてあげる。そうしたらもっとやってみようとなるだろう。積木遊び一つとってみてもこんなもの作れるんだねと褒めてあげる。もっとやってみようとなるだろう。

先日学会で発表した時の反省でも考えておりましたが、他の人が指摘しそうなことは全部想定しておく、想定していないことを指摘された時に受け答えできるようにしておく、それができれば指摘は指摘として処理できるんじゃないかな。これは能力の問題で、性格などではない。伸ばしていこう。

一方で、能力だけの話ではなくその時の”気分”も関係するのは間違いない。

めちゃくちゃ気分が落ちてる時にちょっと耳の痛い指摘をされると、自分をチクチク責められてるように感じるというのは正直あると思う。余裕やゆとりと言ってもいいかもしれない。変に邪推したり曲解したりして勝手に相手を敵にして指摘を批判と捉えないよう、気分を安定させよう。まあ指摘の仕方が下手くそなことも多いけれど、相手に変わってもらうより自分が変わったほうがコントロールしやすい。「こうきたらこう」みたいな感じで想定しつくせるよう能力を磨きつつ、適度に運動してよく寝て気持ちのゆとりを保とう。

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