研修同期と栃木に旅行に行きました。コミュ症を再定義したい。

同期5人と栃木旅行に行ってきました。最近地域研修とか外病院研修が重なっていて同期に会えなかったので、、近況とか聞けてよかったです。久しぶりのラフティングもめっちゃ寒かったんですが気分リフレッシュされました。今回ラフティングで利用した栃木カヤックセンターのURLを貼っておきますね。http://www.tkcnet.jp/

栃木で餃子を食べたのは大学4年生?以来なんで周りの雰囲気も変わってました。大きく変わったのが有名人の〇〇さんが来ました!ってお店に貼ってあることがあると思うんですけど、以前は芸能人のサインが貼ってあることが多かったんですが、今ではYouTuberのサインとか動画のサムネイルが貼ってあり時代の流れを感じました。

僕らが行った『悟空』でも、東海オンエア、ドラゴンボール芸人ら、が来たようです。後ろに並んでいた高校生はYouTuberの話をしていたんで、動画をみてから食べようと思った人も多く来てたんじゃないでしょうか。

📍栃木に日帰り観光。宇都宮の後輩曰く、都会だと聞いていたが。。。 #宇都宮 #大谷 #日光



コミュ症を定義したい

同期のみんなに久しぶりに会いコミュ症が悪化しているなと思い、近頃コミュ障という言葉の意味について自分なりに考察を続けていた。というのも、ぼくは昔から初対面のときは割と話せるんだけど、段々となぜか自分の中に気まずさが増幅していくという経験を多くしてきた。小中高一緒の友人にも、『なかじはなんの理由もないのにコミュ障になってきた』と言われるほどであった。

コミュ障とは

  • 一般的には人と会話するのが苦手。
  • 異性と話すことが出来ない。
  • 空気が読めない。

とかを特徴としている。

なので、段々とコミュ障になるのは普通とは逆方向に進んでいる気がする。

普通の人なら、初対面は緊張してだんだんとアイスブレイキングしていく。

ぼくの場合、初対面の人と話そうと思えば話せるし、会話を続けることができる。研修期間で言うと基幹病院の先生よりは外病院の先生のほうが話しやすいとまで思う。

多分SNSの世界に逃げてしまう人やブログを書いている人、ゲームの世界にハマってしまう人は同様の現象に悩んだ結果だと思う。決してイジメとかアクティブな人間関係の悩みによるものではなさそうである。

以上のことをまとめてみる。

素の自分を友人は受け入れてもらえないかも知れないという怖さがある。

素の自分の思う存分出せるところを探す。

素の自分を出すことができる場所で自己肯定感を得ることができるので、リアルな世界では人間関係を頑張ろうとしない。

アドラー心理学によると、人間関係には仕事、交友、愛の3つがあるという。

12/16(日)レポート 乗り越えるべき対人関係の3つのタスク(人生の課題)と自己受容-アドラー心理学に学ぶ 即実践的 悩みの解決法1 -  心理学&仏教ワークショップ 東京

上に行くほど関わる人数も減っていき信頼関係の厚みが必要になるんだが、ぼくは交友のタスクが苦手なようだ。前提としてその場に貢献しているという共同体感覚が得られると自己肯定感を得られる。つまり素の自分を受け入れてくれるかどうかということは共同体感覚を得られるかどうかということになる。

しかし、アドラーは素の自分を受け入れてもらえば良いと考えているようだが、素の自分を出して成功している例をほとんどみない。素の自分を出しすぎて、当直決めでザワザワさせてしまうのを見かけたことがある。となると、共同体感覚を得るためには素の自分ではないもうひとりの自分をキャラ付けしていく必要があるわけです。

アメトークとか見るとキャラ設定の構図がわかりやすいと思うんですが、

  • 雨上がりさん→聞き役
  • ひな壇芸人→ツッコミ役、ボケ役、太鼓持役、盛り上げ担当

という具合に番組全体に安心感を持って進行することができる。たまにアイドル、俳優とかが来てしまうとこのキャラ設定がフルーツバスケットされてしまうんで、視聴者サイドも固唾を呑んで心配そうに見守る回になってしまう。例えば、明石家さんまさんがひな壇にいたらどうでしょうか?違和感しかないでしょう。いつからか明石家さんまは司会をやって場を回さなければならないといった、英語構文でいうとmustがふかされてしまっているんです。コレをやりやすいと捉えるか、やりにくいと捉えるかは人それぞれなんでしょうが、フレキシブルさにはかけてしまいます。ぼくの場合で言えば、友人のように振る舞わなければならないといった堅苦しさを感じてしまうが故にコミュ症になってしまいます。人間には、これ以上近づかれると違和感を感じて落ち着かなくなる、「パーソナルスペース」と呼ばれるエリアがあるそうですが、ぼくはパーソナルスペースが、普通よりも広いのかも知れません。なんにしろ、ぼくのこうした傾向は思春期の頃からまったく変わっておらず、原因を分析したところで「友人を『こなさなければならない』」という生理的義務感が湧いてくることを止めることはできません。ぼくは、「あー、今日もコミュ障だったわー、コミュ障だったわー」と、飲み会から帰宅後し彼女に対して反省会をするのでした。

 

コメント