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やさしさと冷たさの心理 小学校卒業式に担任からもらった本

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先日実家を売却した関係で僕の私物整理に勤しんでおりました。

ときめき術的にはアウトなんでしょうが僕の思い出の物品を一つずつ 残すかどうかを決めていきました。 日本人の良いところでもありますが、ものに一つ一つに神が宿ると言うアニミズム は僕の中にも宿っていたようでなかなか物品をすることができませんでした。

整理したものの中に小学校卒業式の際に当時の担任の先生からいただいた本が出てきました。当時この本を渡された理由を小学生ではなかなかわかりませんでしたが、年が経つにつれて僕の中でのバイブル的な存在になってきたのは否定できません。

クラスメイト一人ひとりにそれぞれの特徴にあった本をプレゼントしてくれましたが、みんな伝記など次中学生になる人が読んだほうが良さそうな本を渡されている中、題名からして小難しい印象のこの本を当初は怪訝な面持ちでもらったのを覚えています。

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自分や人に対して「やさしさ」と「冷たさ」はどう違うのか?

やさしい人と冷たい人は両極端にある印象があります。

自分の弱さを知るには、自分の内面の真実にひとつひとつ直面する必要がある気がします。

僕の場合、内面に深く入れば入るほど、僕ってほんと冷たいやつだなぁっと逆に悩んでしますことが多いのです。

内面の真実をごまかし放棄し続けていたから今まで自分の力で解決できなかったのです。

小学校受験→中学校受験というレールをひた歩いていただけの人生から、この本を読んでから少し考え方が変わりました。

「やさしさ」とは弱さに立ち向かって行く能動的なもであり、自分に頼って自立する生き方であると思いました。

「冷たさ」とは弱さを解決しようとしない受動的なものであり、人に頼って依存する生き方なのではないかと思いました。

私は後者だったから自身の内面に深く入った時に、ショックを受けてしまったのです。

なので、人に対しては「その人が自立できるようにしてあげているか?」が「やさしさ」と「冷たさ」の基準になるようにしていきたいと思いました。その価値基準をもとに将来の夢を決めていくのでした。

自立した人と欠乏した人との大きな違い

以下は本書の抜粋になってます。

自分の心の欠乏に動機づけられた人は、誰かがそばにいてくれないと不安である。

欠乏に動機づけられている人は人に期待されるように感じ、期待するように考え、期待するようなことを言わなければならない。

彼らの主な欲求は、他人の自分に対する反応によって満たされる。

だから、そばにいる人へ「こうあってほしい」と要求が強くなる。

「こうあってほしい」という自分勝手な基準を正しい基準として他人に適用し、それに合わない人を非難する。

また「こうあってほしい」ということから、「こうあるべきだ」という感じ方をする。そこで、他人にいつも不満になる。

ある人といると、何か気持ちが自由でないという時がある。それは相手がある一定の感情を持ち、ある一定の行動をすることを、暗黙のうちに求めているのである。

口でははっきりと拘束するのではなく、なんとなくじわーっと相手を拘束してくる人である。

また逆に、そのような人は他人の自分に対する反応によってひどく傷つく。

自分の言動が他人を傷つけないか、他人の不機嫌を誘わないかと、恐れるようになる。

だから、心の底では自分は拒絶されていると感じるからこそ、ついつい自分を殺して他人の愛情を求めてしまうのである。

自分の存在に対する漠然とした罪の意識を持っている。自分は褒められる価値のある存在であることを拒否しているということである。

そのような場合、他人の褒め言葉に対して「そんなことない」と言って否定しないことである。

正面から褒められたら、なにも疑わず正面から受け取るのがよい。

そのほうが褒めてくれた相手に対しても失礼がないし、素直に受け取るほうが健康的である。

「そんなことない」と褒め言葉を打ち消しながら、内心嬉しそうにしているほうがよほど卑しい。

他人の褒め言葉を拒否しているのはあなたであって、他の人ではない。

あなたが、他人から褒められることを自分が自分に許せばよいのである。

「私は私であっていいのだ」と。

他人を満足させようとするのではなく、まず自分が満足すること、まず自分が幸せになることを自分に許すこと。

他人の不幸によって慰められる人がいる。そうすると自分が幸せになることを自分に許せなくなる。

そうではなく、生きることを思い切り楽しむことはいいことなのだ。嬉しい時には思い切り嬉しさを表現することはよいことなのだ。

誰もあなたのことを不自由にしていない。しているのはあなた自身なのである。

自立している人にとって、他人の自分に対する反応はそれほど重要ではない。

自分の主な満足は、他人の自分に対する反応によって得られるのではなく、自分の内的な成長によって得られるからだ。

内面の悪さを解決するには、本人が心理的に自立することしかない。自分で自分を頼りにすることである。

自分で自分を頼りにすることができず、自分の価値も確信できず、だからこそ誰か力のありそうな人にしがみつき、支配されることで安心しようとしているにすぎない。

「他人と違って自分には価値がない」

著者はこの感じ方に、何十年と悩まされつづけた。

自分は他人と違って特別な才能が必要である。他人と違って特別につくさなければならない。と感じつづけていた。

自分は他人の同じようには扱ってもらえないという寂しさ、孤独感が、いつも心の底にあった。

人と同じ好意を得られるために、人以上に真面目に、人以上に勤勉にしなければならなかった。

他人は好意を持たれても、自分は好意を持たれることがない。

そのような劣等感は捨てるべきである。

人は自分も他人も同じように感じてくれるものなのだ。

最初のつまづきは大きい。しかし、決して絶対的なものではない。それはとり返せる。

たった一度の人生を、自分を愛してくれなかった人のために犠牲にすることはない。

人生は豊かであり、感動的である。

この世の中に、美しい音がないわけではない、美しい景色がないわけではない、ただそれを味わう心がないだけである。

自分のなかにある素晴らしいものをなにも経験することがなく、人生が終わってしまうではないか。

あなたは自分にとって害になるそんなものを、どうして一生大切にしまってく必要があるのか。

あなたが大切にしておくものは、ほかにもっとあるに違いない。

この世の中に、美しい音がないわけではない、美しい景色がないわけではない、ただそれを味わう心がないだけである。

この言葉が結構僕の心に突き刺さった言葉です。

僕の素性を知っている人ならば美しい音に出会ったときの衝撃は大きいとわかるでしょう。

バエとか作られたものに美しい景色を見つけようとしがちですが、もう少し能動的に見つける努力、もう少し上に行くと努力もせずに夢中になることが大切なような気がします。

 

 

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